雑記

(Twitterに書くには長すぎる感想)

MAMANO CHOCOLATE TASTING EVENT 28th July 2019

MAMANO CHOCOLATEさんの「チョコ食べ会」 in Englishに参加してきたので、英語で感想を書いてみようと思います。
Having joined a tasting event of MAMANO CHOCOLATE, I would like to explain how it was.
I wish it helps some foreginers to join the event at next time.

 

WHO AM I?;
Name : KY ( twitter id = @KY_kbt )
What I like to have : chocolate, shaved ice, meat, fruits, wine and japanese sake
English skill : do not have so many troubles in communication but some in business. learned in UK.
Other info : Worked in a patisserie as a part time worker for 5 years in school days, now an ordinary office worker.

 

The first time I got the information of tasting event from them was in January, but at that time I couldn't join it as there were so many requests to join.
However, I got another opportunity in July.
According to my schedule, I have no choice but joining in English.

As I love sleeping as much as eating, my arrival was on the very time to begin.
We could have 22 kinds of chocolates there.

 

- Cacaolet drops
First of all, their chocolate is single-origin cacao. Means they use only Arriba cacao from Ecuador to produce chocolates.
With this product, we can get the most simple taste of their chocolate.
Now the percentage of cacao is 73% in all products. But they will develop other percentatges in near future.

 

- Ganache
Then we had the ganache. They use the ingredients selected by themselves.
Natural butter, natural fresh cream, sugar syrup and of course their chocolate...
It was smooth and melt in my mouth at once I put it into there.

 

- 7 kinds of Card Chocolate
Small chocolate tablets, often called "Carré de Chocolat" in Franch.
Unfortunately, 2 of 7 will be stopped on production. And another 2 of them are very new on sale.
Simple dark chocolate, with salt, with buckwheat, with caramelized nuts, with crispy crepe, with brown sugar and with coffee.
Nuts and crepe will be gone and I will miss them, but brown sugar and coffee have come.

 

- 3 kinds of Premium Fruits Card Chocolate
A dried fruit on the simple dark chocolate tablets.
Now they have peach, orange and apple. All fruits are made in Japanese farm.
(Actually, I have not had them yet as I brought it home to keep:P)

 

- 2 kinds of Pallet Chocolat
"Pallet" means a pallet knife, the tool to spread chocolate or cream.
This product is spread roughly with that tool.
One with two kinds of berries, strawberry and cranberry and the other with salty roasted almond and sugar.
I love both as the texture of biting was rough, chocolate was bitter but the sugar was adding some sweetness.

 

- 6 kinds of Bonbon Chocolat
My most favourite is completely Hazelnuts bonbon, filled with caramelized hazelnuts praline even though it is without alcohole.
But what I was amazed was the one with Moroccan Argan Oil.
Do you know the argan oil? We often hear the name at cosmetic stores with its great effect to our skin or to our hair.
According to some webpage, it is also good for our health. I will try it again afterwards.
Remember, other four kinds were great as well.

 

- Chocolate dipped orange
I've brought it home as I'd like to have it with my favourite tea or some alcohol.
But the appearance has been already perfect. Candied orange with dark chocolate, how can it be greater?

 

- Cocolate Cookie
It was cookie indeed but any flour was not used to make it. The ingredients are very simple, chocolates, almond and sugar.
Thus, it collapsed at once I put it into my mouth.
No more to explain, just try it though this products are often sold out.

 

Mr. Ezawa, the owner of this chocolatier, told us that they have moved the factory and it got wider.
Therefore they can have enough space to develop more variation of chocolates.
And he and his colleagues are making effort to improve their product.

There will be a lot of new release information and renewal information from them.
I am really looking forward them and I would like to join the event again to find something new.

 

本当に美味しかったし楽しかったので、いろんな方に参加して頂けたらいいなという気持ちと、あんまり話題になると予約取りづらくなりそうでいやだな~という気持ちがせめぎあったけど、English CommunicationとChocolate tastingどっちも大好きなのでいろんなEnglish Speakerの方と知り合うチャンスでもあるかなあと思ったので英語で感想を書いてみました。
手話はできないのですが、英語回じゃない方も行ってみたい。

 

↓MAMANO CHOCOLATE主催イベントリスト
https://mamanochocolate.peatix.com/

激動の時代を生きた女性たち

 

はじめに 二冊のエッセイ

 この一週間で二つの本を読んだ。どちらの本にも、手に取った理由はそれぞれあったが、そのいずれについても著者が二十世紀の初頭に生を受け、戦争という大きな出来事を経験して世紀末、あるいは二十一世紀に亡くなった方であった。彼女たちが遺したエッセイを、本当にたまたま二〇一八年の十一月上旬に纏めて読むこととなった。
 この奇妙な偶然に、不思議な縁をこじつけてしまいたくなったので、こうして感想のような拙文を書き残しておこうと思った。

 

 

石井桃子 『プーと私』

 二〇一八年の十月の終わりごろ、買い溜めてあった日本語の本が粗方読み終わってしまった。そのため、書店でふらふらと手ごろな文庫サイズの本を探していたとき、ふとタイトルに目が引かれた。
 奇しくも今年『プーと大人になった僕』という映画が公開され、もともと人気の高いウィニー・ザ・プーが更に注目を集めているところであった。わたしはもともと、ディズニーで取り上げられている形のプーではなく、原作のプーが好きだった。プーに限らず、イギリス発祥の児童書が好きだったというのが正しい。
 そんな人間がこのタイトルに惹かれるのは当然の成り行きだったと言ってもあながち間違いではない。手に取ってそのまま手に持っていた買う本の山の一番上に積んだ。決め手は、この本の帯に推薦文を書いていたのが、わたしが初めて作品ではなく作者として好きだと意識した方だったからだ。梨木香歩、一番有名な作品は『裏庭』だろうか。映画化の影響で、今は『西の魔女が死んだ』の方が有名となっているのかもしれない。彼女もまた、イギリスの児童文学から多くを学んでいたと記憶している。

 さて、本を手に取った理由はこの辺りにしておいて、本の内容の感想を少しだけ書いておきたいと思う。このエッセイを書いた石井桃子という人は、出版社に勤めた後、翻訳家、作家として活躍なさった方だそうだ。残念ながらわたしは外国の本は原書でもとの言葉を通して読みたいという妙なプライドがあるため、これまで名前を存じ上げてこなかった。
 しかし、エッセイを読み進めるにつれて、わたしはどうしてこの人を知らなかったのだろう?と思わずにはいられないくらい、わたしの好きな外国の児童文学に深い関わりのある方だということがわかった。それを知ることができただけで、税別七四〇円を支払っただけの価値はあったとすら思える事実だった。
 五部構成となっており、前半二部は翻訳や出版で関わった児童文学作品やその作者たちに関する所感を独特の言葉のリズムでまとめてあるエッセイだった。そこから二部、児童図書館という戦後の日本で立ち上げることがどれほど困難を要したか想像に難くないものに関わるエッセイ(しかし、困難さを描いた話ではなく、あくまで児童図書館のためにどのような人と交流しどのようなことを学んだかといった内容が主)、最後の一部で海外渡航に関する旅行記のようないわゆる一般的な「エッセイ」が書き留められている。

 この本の驚くべき、あるいは恐るべきところは、一九五〇年代から一九九九年というノストラダムスの大予言が残されていた時代まで、長きに渡って記されたものを彼女の没後に大西さんという方が纏めて発行している点だ。まず、一九五〇年代なんて戦後の動乱期と言っても良い時代だったのではないだろうか。その頃の原稿あるいは発行物がまだ読める状態でこれほど残っていたことに驚きと感動を覚える。
 しかし、この本に書き記されている素朴で上品な言葉たちは確かに残されるに値する、もっと的確に表現すると残されるべき言葉たちだと感じた。わたしたちが、あるいはわたしたちの子どもになる世代が、当然のように享受している児童文学のために、その人生を賭してくれた先人がいることを知ることができて本当に良かったと思う。

 


白洲正子 『鶴川日記』

 学習院女子の初等科からアメリカ留学という経歴は、現代のグローバリゼーションの中であれば百人に数人はいそうなものだが、当時はやはり伯爵令嬢であったからこそできたことだったのだろう。そんな、ハイソサエティな(余談にもほどがあるが、わたしはなぜsocietyという言葉を片仮名に落とし込むときにソサイエティでないのかいつだって不思議に思っている)文化に触れてきた彼女とその夫であり総理大臣の私設秘書官であった白洲次郎がどうして当時は農村でしかなかった鶴川に居を構えたのか。
 『プーと私』とは対照的に、こちらは著者ありきで選んだ本であった。たまたま、彼らがかつて暮らしていた武相荘を訪れる機会を得たので、その予習としてこの本を読もうと思ったのである。わたしはどこかを訪れるとき、予習をするのが好きだ。その方が訪れたことやそこで見たものを知識として蓄えていられる気がする。さすがに博物館のようなところで一つ一つのものを全て調べて頭に入れて行くことは難しいが、メインの展示くらいは調べて行かないと損だと考えているし、寺院や教会を訪れる際にはその宗教の習慣や建造物の歴史を簡単に勉強する。
 つまるところ、ウィキペディアでも一向に構わなかったのだが、せっかくそこに住んでいた本人が書き記した本があるのであれば、それを読むのが一番良いに決まっている。そんな理由でわたしはこの本が読みたいと思った。
 重版がかからなかったのか他の事情があったのか、新品での在庫がなかったので渋々古本で手に入れた。書店ですぐに買えなかったので一度目の訪問には間に合わず、武相荘の見学は手元に本が届いてからにしようと散歩だけに留めたのもまた、紙でしか読めない人間特有の融通の利かなさを表現しているような気がした。

 この本は三部構成となっており、わたしは当初の目的であった「鶴川日記」を読んだ。一度鶴川の地を訪問していたため、わたしは少しだけ落胆を隠せなかった。新百合ヶ丘と町田の中央に位置する鶴川は、今ではすっかり住宅地として開発が進み、本の中に描かれている昔ながら農村風景は望めないことを既に知ってしまっていたからだ。
 それでもわたしは読み進めた。小難しい言葉を使うでもなく、かといって間の抜けた様子も感じない彼女の文章は、わたしの目によく馴染んだ。
 出てくる名前が錚々たる面々ではあったものの、文章からは箱入り娘の伯爵令嬢の気配は微塵も感じられず、溌溂とした大変近代的な思想の女性が書いた文章であることがよくわかった。それがまた、わたしの気持ちを浮上させた。

 それを踏まえた上で、わたしは武相荘の中にお邪魔した。なるほどここが、と見渡してふと視界に入ったのが婚約時に互いに贈り合ったというポートレート写真であった。そこにそれぞれが手書きで言葉を残しているのだが、お互いがお互いに英語でメッセージを書いているあたり、白洲夫妻が当時の日本という国でいかに高等な教育を受けた者同士であったのかを思い知らされた気がした。
 そして、能面を見てなるほど、なるほど、とまた頷くことができた。これはやはり、白洲正子について予習をしたおかげだと思う。
 何よりも一番、じっくりと深呼吸したのは彼女の書斎であった。壁一面にびっしりと詰め込まれた本はわたしにとってはある種の理想ですらあった。そして、並んだ書物の背表紙をひとつひとつ観察し、見覚えのある名前や作品名ににんまりとしたり、首を傾げたり、年代物で背表紙がぼろぼろになったのであろう、修復された本には一種の感動を覚えた。近年は印刷技術の発展に伴い「新しいものを買えばよろしい」となってしまうことが多く、本の修繕技術は受け継がれなくなってしまった。わたしはぼろぼろになるまで英語辞書を使ったため、新しくてもっと分厚い辞書を買ってもらったことがあるのだが、それが長年の相棒を喪うようで少し寂しかった。

 

 

おわりに 二人の女性たちに感じたこと

 女性が大学に通う、英語を身に付ける、海外に留学に行く。現代日本では珍しくない光景になった。もちろん、ごく一部にはいまだに女性が知識や技術を身に付けることに否定的な人間がいるが、大多数は女性であっても勤めに出る社会というものを当然のように受け止めている。
 それが当然になるまでにはわたしが生まれるよりもずっと前から実際に活躍した女性の苦労があったのだと思い知らされた。大学に通った女性が、留学した女性が、あるいは英語の堪能な女性が活躍することで「無駄ではなかった」と証明してくれて現在がある。
 男女共同参画社会、なんて言葉が謳われてもう長いが、日本の議会の女性議員比率や日本企業の女性管理職比率、女性役員比率は決して高水準とは言えない。これからわたしたちが次の世代に残すことができるものがあるとしたら、現在の「女性が一緒に働いている」社会から「女性の発言を受け入れる」社会になるよう、積極的に発信していくことで実現できるのかもしれない。
 男性だから、女性だからという考え方に囚われず、正当な評価と相互的な思いやりで関係性を構築できる社会に向けて、百年前に生まれた先人から学ぶことは尽きない。

 

感想文(仮)【GO NOW / KEN THE 390】

1.はじめに

 KEN THE 390さんが2018年2月にリリースした9枚目のフルアルバム『リフレイン』より。

youtu.be

 発表当時すぐに聴いたわけでもなく、当然メディアチェックもできていない上、これを書いている人間が過去の記録媒体を掘り起こすのが得意ではないため、この曲については何のエピソードも知らない。ただ、とにかく好きだから感想を書いてその理由を少しでも明文化できればと思う。

 

 

2.感想

 わたしが先日まで掲げていた座右の銘として(今も別に撤回したわけではないのだけれど)、「人生は自分が主役の舞台である」というのがあるのだが、この曲はそれを噛み砕いて、あるいは解きほぐしてくれたような感覚があった。
 「脚本から 監督 主演 すべて 単独でやる」だとか、「光当てる スポットライト それすらも自分で 動かせなきゃ 誰も気づきゃしない」だとか、1ヴァース目のリリックを聴いてひどく共感した。別にスポットライトに当たらなくても生きていくことはできる。もしかしたらその方がいわゆる『平穏な』人生なのかもしれない。でも、それで満足できない人間が行動するのだと思う。
 一歩踏み出すには勇気と労力が必要で、そういったものが面倒になることはある。というか、いつだって面倒くさい。それでも、目指すものがあるからやるしかないのが人生なのだと思う。逆に言うと、目指すところがないから、「別にいいか」が積み重なった『平穏な』人生になるのかもしれない。

 準備期間の方が長いのは当たり前で、自分でスポットライトを動かせなきゃ輝けないのもすごくわかるのは、多分会社員としての経験からではないのだろうな、と思う。
 文字を書いて食べて行きたいと考えたときに、現実主義のわたしは早々に専業で執筆活動をすることを諦めた。まず、小説家と名乗れるまでのスパンを考え、それに至るまでに貰えるライターとしての仕事の件数を考えた後、家賃や水道光熱費などの生活に必要な経費を考えた。残念ながら、それらを考えずに夢に生きれるほどわたしはシンプルではなかった、あるいはそこまでの熱量はなかったのかもしれない。
 文章を書くのは、二十代の半ばまで本当にただの趣味でしかなかった。そして、中途半端に大人になってしまったわたしには、高校生や大学生の頃よりほんの少し現実が見えるようになってしまっていたし、そのために便利な暮らしを捨てて実家に帰るなんてこともしたくなかった。
 まあそんなことは今はどうでもよくて、話の軌道を修正すると、ひとつの企業の中では意図せずスポットライトを当てられたり、正当に評価してくれたり、仕事を手伝ってくれたりすることがある。それはこの曲のリリックと並べてみるとちょっと形が違うと思ったという話だ。
 一時期定職に就いていなかったので、非正規雇用も含めると渡り歩いた企業数は年齢の割に多い方だと思うのだが、実力主義の企業であれば自分でスポットライトを動かして光を浴びることができる。でも、それができない企業もある。昔ながらの年功序列で、何であいつがと思うような人間が脚光を浴びることなんて世界には溢れていると思う。
 その点では、音楽でも、文学でも、芸術でも、自分で自分を宣伝して売り込んで仕事を勝ち取る、賞を勝ち取る、そういう世界の価値観の方がこの曲には馴染むのだろうと感じた。まあ、その中でもやりたいことができれば収入ゼロでもいい人間、売れたい人間、モテたい人間、富と名誉が欲しい人間など、いろいろな人間がいるのだけれど(わたしは誰かに認めてもらいたかった人間で、ある出来事で承認欲求が満たされたから筆を置いたのもある)。
 実際は、仕事だけが全てじゃない。私生活においては、それこそ本当にみんな自分が主役で自分が脚本演出で監督で、外注しているのなんて音響くらいかもしれない。赤ん坊なんてその最たる例で、自分に注目してもらうためになりふりかまわず泣き叫ぶのが仕事なくらいだ。程度の大小はあれ、人間はみんな自覚したり無自覚だったり、相手の意識を自分に集めるための何かを行っている。

 

 また、わたしはこの曲にひどく共感したと共に、1ヴァース目の「人と同じそれもいい 人と違うそれもいい」という言葉と、2ヴァース目の「迷いまくった結果今があると思えれば全て無駄じゃない」という言葉に何となく救われた。どうしても何かを作ろうとしたときに、他者と傾向が被らないよう奇を衒った作風を意識したり、逆に流行を意識して没個性的な作風になったり、いろいろと試行錯誤していたことがある(仕事として文字を書いていた時期には多少なりとも自分の軸が出来上がった上で仕事を請けていたので、趣味として楽しんでいた頃の話ではあるけれど)。でも、自分で作りたいものをきちんと作ればそれでいいのだと思う。それが評価されるかどうかはわからない、流行だったり政治や経済に翻弄されることも大いにありうる。でも、そういった試行錯誤を経たからこその今だとも思えるようになることが大事なのだと思う。
 それを理解した上でいろいろと考えると、自分の好きなことをやれることが幸せの形のひとつなのだとわたしは感じている。もちろんそのために他者に迷惑を掛けてはいけないのでいろいろなことを考えて調整しなければいけなくて、多分それが一番大変な裏方作業なのではないかと思う。いや、これはきっと個人差があるから、他のことが一番の苦労という人もいるかもしれない。
 仕事であっても趣味であっても、それ以外の何かであっても、必死になれる何かがある人ならこの曲に共感できると思ったし、この曲がしっくりこないならまだ努力の余地があるということだと思う。基本的に思考回路がマイルドな松岡修造なので、そういう人が現状に満足していたとしても「もっと頑張れるよ、君ならできる」と言い始める傾向がある。そう、君ならできるしわたしにだってきっとできる。

 

(まったく話は変わるのだけれど、わたしは人に「頑張れ」と言われることが大嫌いだ。どうにも文字通り受け取ってしまうため、自分が現在進行形で行っている努力を評価されていないように感じる。逆に、努力が伝わってきて素敵だと思う人には「頑張れ」とは決して言わないし、わたしから発せられる「頑張れ」はまだ努力・改善の余地があるという嫌味を込めた警告なので、大層性格が悪いなとこれを打っていて気が付いた。楽しみにしています、と、ご無理のないよう、がわたしにとっての世間一般的な「頑張ってください」と同義なのだと思う。)

 

 

3.おわりに

 どうやって締めるつもりであったか忘れてしまった。人間は、好きなものを語るよりも嫌いなものを語る
 とにかくわたしは、この曲が好きだ。「頑張ろう」と思えるし、書いた人にはおこがましくも「お疲れ様」と言いたくなる曲だと思う。そして、そんな人が書いた他の曲も聴いてみたいな、と思わせてくれる曲なのではないだろうか。まあ、人によるか。
 リリックの内容がどうにもじわじわと「好き」を膨張させたので、歌詞にばかり重点を置いたところはあるのだが、もともとイントロの時点で好きだった。やっぱり、技術的な知識も音楽の専門知識も皆無なので、何がどう好きとかそういう話はできないのだけれど。
 努力努力と言うのだから、そういう勉強についても努力しろと思われるかもしれないが、わたしの努力のベクトルはそちら方向には向いていないので、どうか許して欲しい。

感想文(仮)【KEN THE 390/Be Natural】

 

1.はじめに

 KEN THE 390が今年の夏に出した新しいEP『THINK!』に収録されている、Be Naturalという曲がある。とある番組でDJ PMXというレジェンド級のDJと一緒に制作した曲とのことだった。この曲を聴いたわたしは、ああ、綺麗になりたいな、そう思った。
 綺麗でありたいと思うのが女性の義務なのかと言われれば、そうではないと思う。女性蔑視やミソジニーに対する批判、啓蒙活動が盛んになってきた今日において、女性だからという理由で綺麗になろうとするのは違うと声を大にして言いたい。では、どうして綺麗になりたいと思うのか。目的は何なのか。この曲を聴いて、綺麗になりたいと思うたびにぼんやりと考える。

 

2.感想(仮)

 そもそも、この曲を聴いて綺麗になりたいと思うスイッチは「いつもラフなメイクでどんな時もOK」というフレーズである。この曲を、この曲と認識して最初に聴いたのは7月のタワーレコード渋谷だったと思う。わたしは普段どおりきっちり化粧をして、マイクを握る彼を観ていた。だからこそ、何となく申し訳ない気持ちになって、ラフなメイクでもOKと思ってもらえるような──それが誰に対してなのかはよくわからないけれど──人間になりたいな、と思ったのだ。
 2ヴァース目のリリックでは「君は君 それだけでパーフェクト」「他の誰か比べるなんてナンセンス」「そのままの君でいて」と、改めて羅列すると聴いているこちらが恥ずかしくなってくるようなフレーズが並ぶのだが、多分わたしはこの歌詞のように誰かに全幅的に自分を受け入れて欲しいのだと思う。あるいは、認められたいのかもしれない。そして、自分がそれをされるに値しないと認識しているから、「綺麗になりたい」と感じるのだろうと思う。たとえそれがこの歌の指す「そのままの君」と正反対であるとしても。

 

 どうしてだろう、と思う。「そのままの君」を好きになってくれる人を探せばいいのだと自分でも理解しているのに、なぜだかわたしはこの曲を聴くと綺麗になりたいと思う。多分、感想というのはそういうものなのだろう。こんな風に好きになってくれる人が欲しいなと思う人もいるだろうし、わたしみたいに綺麗になりたいと思う人もいる、そうやって受け止め方が違って、あとはそれを言葉にするかしないか、言葉になったものがいわゆる「感想」なのだ。
 そもそもわたしの感想の根底には「こんな風に好きになってくれる人が欲しい」があるのだ。そのために、まずは自分が綺麗にならないといけないと思うから、最終的な感想が「綺麗になりたい」になる。これは多分わたしの考え方に起因している。というのも、わたしは人生で発生するほとんどの問題は自分の努力で解決できると思っている(そして、どうにも解決できない問題というのは、おそらく本来わたしに振り当てられるべき問題ではなかったのだろうと諦める)ので、この曲を聴いたことで直面する「そのままの自分を好きになってくれる人がいない」という問題について、努力しようとした結果が「綺麗になりたい」なのだ。
 人によっては、そんな人と出会えるようにコミュニティを拡げるなんていう方法をとるかもしれないし、既にそんな風に愛されている──羨ましい限りだが──人がこの曲を聴いた感想はきっと全然違うものなのではないかとも思う。

 

 いろいろと話が脱線した気がするし、果たしてこれは感想なのかという疑問も浮かぶのだけれども、そもそもこの曲自体が「綺麗」なのだ。音楽の知識が全くないわたしには「イントロの○○が~」だとか「フックに入るときの**が~」なんて専門用語で語ることはできないのだが、メロディがとても綺麗なのでまずは一度聴いてからこの感想文を読み返してみるのがいいと思う(このブログに辿り着いている時点で聴いたことある人がほとんどな気はするけれど)。
 本来の感想というのはそういう技術的な部分にも触れるべきなのかもしれないが、コトバンクいわく【物事について、心に感じたことや思ったこと。】らしいし、英語でもimpressionだとかthoughtsを使うものなので、間違ってはいないということにしておいて欲しい。

 

3.おわりに

 さて、ここまで書いたので最初にちょっと触れた理由がわかると思うのだが、わたしが感じた「綺麗になりたい」についてはわたしが女だからではないのである。そういう人間なのだ。仮にわたしが男だったとして、やはり目的があって、それを達成するために「綺麗である」ことが必要なら、わたしは「綺麗になりたい」と考えるだろう。
 ただ、選択肢として「綺麗になる」が浮かぶのは女性だからなのかもしれない。そういう文化に触れて生きてきたからかもしれない。これについて書き始めると、曲の感想から大きく逸脱する上に、問題を提起するのに表題の楽曲を巻き込む形になるのでやめようと思う。
 とにかくわたしは面倒くさい性格の人間で、寄り道しがちな思考回路をしているということだけ、最後に言い訳として記しておく。

 

おしまい

SEVEN/7を観てきたはなし

 

観に行くつもりでいたのに申込忘れたのがちょっと前の話。
行くか、と軽率に決めたのが5月28日、月曜の話。
チケットが確保できたのは6月1日金曜の回。
(金曜日だけは、日比谷のプレミアシートありのスクリーンで上映だったため、プレミア料金を払えばチケットが取れる状態だった。)

限定上映初日である28日の夜、友人から「早く観て」とLINEが入った。
彼女にはチケットを取ったことも言ってなかったのだが、まあいい。
バスタオルを持って行けと言われたので、愛用の大きめのタオルを持って行った。

 


[小林直己さんについて]

 

ブログで書くのは初めてだが、わたしは直己さんが好きだ。
友人らには納得されるのだが、三代目メンバーの中で一番好きだ。
「直己さん(と隆二くん)を大画面で観たいし、行くか」というのがチケットを確保する決め手だった。
人を好きな理由を言葉にするのはいつだって難しいが、直己さんについてはどうにか説明できる気がする。
彼の持つ、穏やかな空気が好きだ。
しかし、それは彼生来のものではないと思っている。
生来穏やかな人間が、EXILEなんてやんちゃなグループに入るとは考えづらいからだ。
時間を経て穏やかになったのか、あるいは何かきっかけがあったのか、その辺りには大変興味がある。どこかで語ったりしていないだろうか。
彼は、若い頃の「やんちゃ」だった名残を、今は「お茶目」な部分に昇華していると思う。
それがすごく自然で、適切な言葉として浮かぶのはチャーミングで、そういった部分を拝見するたびに好きだな、と感じるのだ。

さて、こうして彼について言葉を連ねてはいるものの、正直なところグループ内における直己さんの人気は今ひとつだ。
恐らくではあるがご本人もそれを自覚しているし、受け入れていると思う。
言葉にするとネガティヴな印象ばかりだが、それについて彼は別の方向で自分の可能性を広げようとしている、SEVEN/7を鑑賞したわたしはそのように感じた。

具体的な数字を調べているわけではないのだが、数字的人気(動員数)と知名度は必ずしもイコールではない。
例として、V6とEXILE THE SECONDを挙げてみたい。
同じ6人組、どちらもアラフォー世代、アイドルとヴォーカル&パフォーマンスグループという違いはあるが、そこはわたしにとっては同じだということは以前の記事で書いたので省略する。
メンバー全員の名前を諳んじれる人間が多いのはどちらか、と考えると圧倒的にV6である。
わたしはV6ファンではないが、全員名前と顔が一致する。逆に、SECONDについてはファンになるまで顔も名前も一致しなかった。
しかし、わたしが去年驚いたのが、この二組についてはライブ(あるいはコンサート)を行う会場規模が同じなのだ。
V6の知名度が低いとは思わない。人気がないとも思わない。しかし、SECONDと同じ規模と聞くと疑問を抱いてしまう。

あるいは、俳優や女優同士の比較でも良い。
キネマ旬報の表紙を飾るような若くて勢いのある俳優と、中でインタビューに答えているだけのベテラン俳優であれば、集客力はきっと若い俳優の方が高いだろう。
舞台挨拶で黄色い悲鳴が上がるのだって当然若い方だ。
しかし、知名度でいうとベテラン俳優の方が高いことが多いと思う。
舞台挨拶に行きたい!という熱心でフットワークの軽いファンは少ないながらも、ベテランとなるまでの過程で出演した作品で、その名前を多くの方に知らしめてそこに立っているはずなのだ。

そういった、地道な芸能活動のための下準備を直己さんはしているのではないかと思った。
芸歴が長くなればなるほど、コネクションだって増える。
あの事務所は、音楽業界の中ではあまり好かれていないと思うのだが、最近は俳優業界にも力を入れ始めた。
(幸いにして2.5次元舞台の乱立により若手俳優が雨後の筍状態であるし、いくらかの大物とのコネクションまである)
どうせなら事務所の外仕事にして欲しかったのだが、LDH picturesなんて会社まで立ち上げた。
これについてはあの会社の悪い部分の最たるところで、自社で全てをやることで権利関係を独占しようとしているのだと思う。

まただいぶ話が逸れたが、そこで主演を務めるような俳優になろうとしているのではなく、それを最大限引き立てるような俳優になろうとしているのではないかと感じた。
いやもう隙間を埋めるのはオタクの悪い癖なのだが、表現力や知識を身に着けることで演技に活かしたいのかな、と。

直己さんのことを好きになってまだ日が浅いが、いろいろと話を聞く限り自己顕示欲がないわけではないのだ。
芸能人だと気付いてもらえたら嬉しいし、直己さんが一番好きです、という人がいれば喜ぶし、注目されたらもっと注目されたいと思う。この辺りは芸能人としての資質であって、特別ナルシストだとは感じなかった。
それでも、どうしてもグループ内の人気メンバーのついで扱いが多い。
直己さん単独で何かに出演するとなったときは、三代目の誰かを好きな人や、EXILEの誰かを好きな人、あるいはLDH所属のほかの誰かを好きな人が、「直己さんのイベントあるんだ、行ってみよう。」と足を運ぶケースが多いのではないだろうか。
「無料だし」、「近いし」、「他に○○も出るし」、といった条件がつく。
もちろん、直己さんが大好きで直己さんを追いかけて直己さんのためにあれやこれやとお金を費やす人もちゃんといらっしゃる。頭が下がる。(わたしは所詮茶の間レベルなので東京が限度)
ただ、全体の比率を考えるとやっぱり、他の人のファンが多いと思うのだ。
「わたしも直己さん好きですよ、一番は○○なんですけど。」
よく言われる言葉である。嫌われることはないにしても、一番好き!と言ってくれる人はあまり多くない。
そして、繰り返すが彼はそれを理解した上で、その状態のまま事務所やグループに貢献できる方法を考えたのではないかと思う。

簡単に言えば、普段のアーティスト活動外で、彼でいうと俳優として、普段のファンとは違う層に対する認知度を高めてグループに還元したいと考えているのだろう。
十代から二十代(もしかしたら三十代も?)の女性という、今彼らを応援している中心層とは全く異なる層を狙っているように思う。
(余談ではあるが、同じく俳優としての仕事を増やしていこうとしている岩田剛典に関しては、まだアイドル俳優の域を出ていないと思っているし、三十という年齢を迎えた先に本当の課題があるのではないかなと勝手に考えている。)

取りとめもなく文字を書いてきたが、結局感想らしい感想を書いていないような気がしてきたのでまとめると、
直己さんが素敵でした。
という話。
西陣工房や刀工の見学も、英語でのコミュニケーションも、全て素敵でした。
新しい物を切り開くばかりではなく、古い物を学ぶ姿勢が様になっていました。多分、他の人が同じことをしていても「メディアのためのパフォーマンスお疲れ様です。」と感じたと思います。
温故知新とはよく言ったもので、それをどうにか自分の活動で体現しようとなさっている姿が素敵でした。
いや、本当に、素敵以外の言葉何かないのかよって思うんですけど、素晴らしいというのは何だかお客様目線というか、評価のようで好きじゃなくて、素敵という言葉がぴったりくるのです。

 

 

 

直己さんの話だけでこんなに書くつもりなかったので、とりあえずここまで。
他の人についてはもっと端的にまとめたい。まあ、書くかどうかはわからないが。

J-POP HIP HOPとアングラHIP HOP


これこれ!と思うような記事を読んで感銘を受けたので、是非共有したいな~と思い、久しぶりにはてなを開きました。
ところどころ敬称略している部分はありますが、ご了承下さい。

 

ファンからの手紙
RHYMESTERのMC、Mummy-Dさんが書かれたブログです。
1989年グループ結成、つまり来年で30周年。
MC二名とDJ一名、全員早稲田大学を卒業しているという「世間の抱くHIP HOPに対するイメージ」とはだいぶ違う経歴の方々です。

 

 

ファンの定義

わたしは、15歳くらいのときかな、当時流行していたRIP SLYMEや、活動休止前のKICK THE CAN CREWを好きになった流れで彼らのことを知り、そこからずっとファンです。
といっても、ライブ全通とかCD全種買いとか、そういうことはしていません。
わたしの中で、俳優やアイドルのファンの定義は「現場に入る、金を落とす人」ですが、音楽のファンの定義は「何年経っても聞き続ける人」なので、同じ「ファン」という言葉の中にも明確な違いがあります。
ちなみにわたしがここ一年ほどハマっているEXILEについては、前者の考え方を当てはめています。音楽性はほぼ合わないので。

そういえば、前回のブログで書いた「去年の冬、きみと別れ」にMummy-Dさんご出演なさっていますね。
TDCホールのプレミアが初見だったのですが、一緒に行った子はRHYMESTERを知らなかったので一人で悲鳴を飲み込みました。びっくりした。

 


アングラHIP HOPとJ-POPシーンにおけるHIP HOP

話が脱線しました。
やっぱり、HIP HOPはどうしてもアンダーグラウンド、いわゆるアングラのイメージが大きいです。
それはルーツを辿るとブラックミュージックだから、そもそも外国の音楽文化であり日本ではニッチだから、など理由はいくらでも挙げられると思います。
実際、そういう昔ながらというか、低音のビートに乗せてラップで世の中を風刺して目に付く物は全部ディスる、みたいな方も多くいらっしゃいます。
それはそれで一貫性があって格好いいなとも思います。

しかし、近年のJ-POPにおいて、HIP HOPがチャートインすることはあまり多くありません。
何故なら日本の音楽シーンではまだまだHIP HOPやRAPが浸透していないからです。
言葉にすると単純に見えますが、馴染みのない文化を大衆に浸透させることは相当難しいことだと思います。本当に。
例えば、バレンタインは製菓会社、クリスマスはコカコーラのサンタクロース戦略で一気に広まったという認識ですが、毎年春にあるイースターや、その前の謝肉祭(カーニバル)なんかは某コンビニがちょっと企画したりもしていたものの全然浸透していないし、「言葉は知っていても何のお祭りかまでは…」という人がほとんどだと思います。
一応宗教的に日本でメジャーな仏教の、花祭りや成道会ですら全く認知されていないので、仕方ない気もしますが。

そんな人たちに、HIP HOPとRAPが乗っているだけのPOPの違い(どっちもラップじゃん)だとか、テクノとedmの違い(どっちもDJがターンテーブル回してるやつでしょ)だとか、薀蓄垂れたところで仕方がない。
余談ですが、edmはedc開催や世界的DJの来日なんかでかなり盛り上がっている印象があります。ヤスタカ効果もあるのでしょうか。
何にせよ、日本の音楽シーンに食い込むには、上記ブログでMummy-Dさんも仰られている通り新鮮さがありつつキャッチーでなければいけません。ヒゲ面やタトゥーなんて以ての外、みたいなところさえあります。
結局のところ第一印象の99%は顔、みたいなところは音楽業界に限らずあるところだと思います。
ただ、そこで思い出して欲しいのが、わたしが先に述べた「ファン」の定義。
自分の信念を曲げて、見た目や音楽を整えて、それで出来たファンが果たして「音楽のファン」になってくれるでしょうか。
(別にJ-POP HIP HOPの担い手達が信念を曲げているとまでは思いませんが、形式的にこう表現します。)

主に「伝統と信念」と「世間の需要」のバランスを上手く調整する必要があるかと思います。
実際それをやるわけでもないので、それがどれくらい大変なことなのかは正直見当もつきませんが。
その二つを言い換えると、「アングラHIP HOP」と「J-POP HIP HOP」なのかなと思います。

 


アラサー世代に刺さるJ-POP HIP HOP

2000年代が日本の音楽チャートにいわゆる「HIP HOP」が当たり前に存在していた時期かな、と思います。
EAST ENDが一斉を風靡したものの、HIP HOPという文化の浸透にまでは至っていなかった90年代。
それを経て、RIP SLYMEKICK THE CAN CREWケツメイシm-floあたりが一気にチャートに登場しました。
(それ以外に、彼らをHIP HOPと分類するのは躊躇われたのですが、類似文化としてDragon Ash湘南乃風も)

99年にデビューした某アイドルグループや、06年にデビューした某アイドルグループに、Rapポジションの方がいたのもちょっとは影響があるかもしれません。

そして、数年が経ち、ブームが薄れ、彼らは音楽チャートから次第に姿を消していきます。

わたしの青春はここで一度、終わりを告げました。
高校生のときは、大学生になったらFG NIGHTに行きたいねなんて話していたのにも関わらず、大学生活が忙しくなってなんて言い訳と共に。

KICK THE CAN CREWの活動休止であったり、m-floからLISAが脱退したことであったり(これはちょっと時期がずれますが)、RIP SLYMEのDJ FUMIYA療養による事実上の休止状態だったり、RHYMESTERの活動休止であったり、理由は本当にいろいろ。
一度ストップを掛けられてしまうと、その間に他のことに興味を移してそちらに集中してしまうわたしの性質に起因する部分が大きいでしょう。
そう考えると、ケツメイシがチャートインを続けている理由は、そういう部分も大きいかもしれません。
00年代終期にはGReeeeNというグループが登場し一世を風靡していたのですが、兼業で顔出しNGのためメディア露出が少ないグループだったので、あまり詳しくならないまま時間ばかりが経過してしまいました。

彼らの特徴は「あれ、思っていたより爽やか?」という外見と音楽性だと思います。
B-BOYならではのBIGサイズシャツやキャップ、腰パンはあれど、イカツいデブがいない。清潔感がある。(RYO-Zは当時の感覚では可愛いデブという認識)
まず見た目や雰囲気の「とっつきづらさ」を軽減させたのが、一つのポイントだったのではないかと、素人ながら考えています。
音楽も、どちらかというと低音ゴリゴリ打ち込み系というよりは、生音やテクノっぽい音を組み合わせてメロディー重視だったように思います。(特にRIP SLYMEm-floは)

(なお、HIP HOPグループというよりミクスチャー・ロックのバンドだと思うのでやはり余談になりますが、Dragon Ashは、いかつい鼻ピアスとタトゥーで威圧感はあるものの、ベースがイケメンなのとバンドなので一定のファンがつきやすいというのもあり、プラマイゼロというかちょっとプラスくらいでしょうかね。イケメンすごい。)

そこから、最近の話になるわけですが、最近はいろいろ広がりすぎていていまいち全体を把握できていないのでどこが人気とかわかりません!
たとえばEXILE関連でHIP HOPグループのドーベルマンほにゃららがいますが(好きですよ)、彼らのオリコン入りする理由って「複数形態売り」とか「バックヤード招待券」とか、そういうものに支えられているところがかなり大きいと思うんですよね。
良くも悪くも、当時とはいろいろ変わったなあと思うところもあり、一義的に「今売れてるJ-POP HIP HOPはこの人たち!」というのが言えません。
う~ん、売上だけじゃなく、世間一般の知名度やファンの数(ライト層も入れると、やはりダントツはドーベルになってしまう気がする)、影響力なんかを誰かにまとめて欲しいですね、
本当に、良くも悪くも乱立しているな、と感じます。シーンが盛り上がるのはいいことなんですけど。

 


一方のアングラHIP HOP

90年代のアングラHIP HOPといえば、実際に体感したわけではありませんが、やはりキングギドラ(現・KGDR)だと思います。
00年代になると、一番大きかったのはNITRO MICROPHONE UNDERGROUNDでしょうか。
それ以降、10年代はアングラではグループよりも一人のMCが活躍するようになったように感じます。
尤も、記述の仕方でおわかりの通り、わたしはアングラに詳しくはないので深くは知りえないのですが。
もう間もなく20年代に入るわけですが、彼らの界隈はどのように変貌を遂げるのか、もちろんわたしなんかでは推測もできません。

 


果たしてこの二つのHIP HOPは対立すべきなのか?

そもそも対立して何の得があるのかわかりません。
ただ、アングラ側から「世間に媚び売ってる」だとか「本物のHIP HOPじゃねえ」みたいな感じで喧嘩を売っているのはたまに見かけますが。
別に媚び売ってもいいと思うんですけど、あくまで音楽を商業的に捉えるのであれば。
媚びを売る、イコール受け入れられやすい楽曲を作る、であり、イコール信念を捨てる、ではないのですから。
HIP HOPを流行させたい、なんて大義名分を振りかざされるのも困惑ではあるのですが、アングラ側も「J-POP HIP HOP側が勝手に耕してくれたにんじん畑でトマト育ててやるぜ」くらいの気持ちになれば良いと思うんですけど。
いや、雰囲気的には畑を荒らしそうなんですけど。実際、喧嘩を売るっていうのはそういう感じですけど。

もちろん聴いている側にも、Mummy-Dさんのいう「HIP HOP原理主義者」みたいな方はいると思います。
ただ、あくまで商業的戦略で、音楽マーケットへの進出を狙うのであれば、わたしや、わたしよりもっとライトな層にウケる音楽を作る必要がありますよね。
土台がなければ家は建たないし、耕さなければ野菜は生りません。(たけのことか、自然界に当たり前に存在するものもありますが)
段階を踏まずにいきなり大ヒットを狙うより、戦略的に行動していく方が、生き残る上ではひとまず「賢い」のかな、とは思います。

もちろん、アングラの人たちだって地道な活動はなさっていますし、本当にどちらが良いという話ではなくて、「マーケット開拓はお前らに任せた。こっちはこっちで息の長い音楽ファンを増やしておくから。」くらいの役割分担が重要なのではないかと思います。
そう、J-POP HIP HOPはファンが去りやすいのです。
何せくくりがJ-POPなので、HIP HOP以外にもたくさんの競合ジャンルがありますから。
だからといって、そういう人たちを無視するわけにはいきませんし。難しいところだと思います。

 


さて、そんな中でのRHYMESTER

二つのHIP HOPの中間(ちょっとJ-POP寄り)にいるのがRHYMESTERかな、と思います。
スチャダラパーRHYMESTERは、まさに00年代のブームにとって「耕された畑」だったのではないでしょうか。
JC/JKだったわたしは、当時そんなことを考えながら聴いていたはずもないわたしはですね、適当に頭でっかちにこんなことを喋っています。
当時のわたしの感想は多分、メッセージ性(社会風刺)が強いとか、低音のビートがカッコイイなとか、多分そんな感じでしょう。

好きになって行く過程でいろいろ調べて、RHYMESTERは早稲田の人なのか~なんて感想も抱いたかもしれません。
学歴とヒットは必ずしもイコールになりません。でも、J-POP HIP HOPでシーンに登場する人は結構、高学歴の人が多いのかもなという印象です。
最近聴き始めた中だとKEN THE 390とかも早稲田ですし。わたしに国立と並行して早稲田目指す根性があればなあ…(結局国立も落ちた)
でもまあ、KICK THE CAN CREWKREVAが慶応卒でも他のメンバーは違うし、RIP SLYMEには大卒がいないし。
個人的な見解だと、「KICKはKREVAの戦略」で、「RIPはFUMIYAの音楽センス」であそこまでムーブメントになったのかなと思わないでもないですが。あくまで基礎の話で、その上にいろいろと積み上げられてこその人気ではありますが。

とにかく、日本に存在するHIP HOPグループの中でも古株のRHYMESTER、ブログでご本人も「出たいよテレビ!」と仰る通り、世間一般の知名度はそこそこ。
夏の音楽フェスへのご出演は多いので、フェスが好きな人ならHIP HOPに興味がなくても知っているかも、というくらいでしょうか。(わたしの個人的な体感の知名度です)
でも、HIP HOPのアーティストを目指す人、HIP HOPが好きな人は95%くらいご存知でしょう。まあ古株だから当然って言われてしまえばそこまでなんですけど。

ただ、存在するだけで圧倒的なレジェンド感。
一番売れた曲とか、一番有名なやつとか、ファン以外でも知っている曲なんてほとんど浮かばないのですが、それでもやはりKING OF STAGEなだけあるといいますか…
わたしの周りで一番知名度がある曲は肉体関係 part2 逆feat.CKBですね、多分。みんないつまでも心が小学生なので…
個人的に好きな曲はたくさんありますが、ある意味キャッチーだと思います、褒め言葉として低俗を使いたくなるような。
この曲を歌っている人が戦争についてちょっと真面目な曲を歌っていたりとか、そういうギャップが楽しめるのもHIP HOPの醍醐味かもしれません。

 

 

 

 

で、結局ここまで語って何が言いたいの?って、
5月13日(日)に、RHYMESTERが主催で「人間交差点2018」ってフェスやるからみんな行こうよ!
ってだけです。
別にわたしが宣伝しなくても人は集まるだろうけど、何かDさんのブログ読んで「はわ…しゅき…」の気持ちが大きくなったので宣伝したくなったんだよ。

 

何だかんだで好きになって15年くらいかあ、という気持ちと、あれ、それってわたしの人生の半分くらいじゃん、という驚きで、頭が纏まらないまま、ゴールデンウィークの中日出勤の合間にこんだけ書いてみました。
う~ん、音楽業界のマーケティングって、対象が感情や流行で動くから難しそうですね。

 

おしまい

去年の冬、きみと別れ 鑑賞

※ブログ用の改行を忘れた女は、普段と同じ調子でびっしりと文字で埋めてしまいました。


「騙す騙された、この映画の本質はそこではない」

 

 これは、『去年の冬、きみと別れ』の主演を務めた岩田剛典が舞台挨拶時に終始繰り返していた言葉だ。
 映画を鑑賞した後はわたし自身そう感じたし、この言葉に異存はない。だからこそ「騙された!」と声高に主張するプロモーションの方向性は少し間違っているのではないだろうかとも思う。そして、主演がそう思っていてもプロモーションの方向性を覆すことは適わないこの商業主義に少しだけ悲しい気持ちになった。
 わたしがブログを書こうと思った理由には、そんな同情じみた気持ちも含まれている。

 

 先述の通り、わたしは『去年の冬、きみと別れ』を鑑賞した。最初は、観に行けたら行こうかな、くらいのつもりでいたのだが、主題歌を歌い上げるm-floに、LISAの戻ったm-floに、少しでも貢献しなければならない、と必ず観に行くことを決意した。
 試写会はことごとく外れ、わたしがようやくそれにありつけたのは、二月二十一日に実施されたジャパンプレミアでのことだった。その日のわたしはとにかく疲れていて、寝不足で、それでもお昼ご飯に寿司を食べに行くことで自分を奮い立たせていた。そこで、わたしは冒頭の言葉を聞いた。

 この物語の本質は、「騙す、騙された」ではない。わたしもそれに同意する。では、本質は何なのか。これもまた、確か岩田剛典本人が答えを言っていた気がする。(ただし、それがこの日のことだったかは覚えていない。)
 ――人は、愛する人のためにどこまで変われるのか。

 

 ちなみに、わたしはこの映画に「騙されなかった」人間だ。まだ観ていない人には、騙されないためのヒントを一つだけお伝えしたい。キーワードは「汗」だ。他にもたくさんのヒントが散りばめられているが、一番わかりやすく監督が挿入したヒントは、この「汗」だと思う。北村一輝演じる小林のシャツに、色が変わるほど滲んだ汗。斎藤工演じる木原坂の家に向かう、岩田――すなわち耶雲の汗。そして、それが指し示す…これ以上は、ヒントの域を超えてしまうのでやめるとする。
 まあ、騙されたところで、繰り返しているが本質はそこではないので気にすることはない。ストーリーを楽しむことはもちろんだが、それぞれのキャストによるキャラクター解釈が一番の魅力だと思う。やはりネタバレになってしまうので詳細を語ることはできないのだが、この映画には「動の狂気」と「静の狂気」が存在している。そして、わたしはそれぞれの狂気の原動力は真逆の物だと考えている。その二つの狂気に翻弄される一般人、という人間味溢れるキャラクターがいることで、この物語の人間関係をぐっと現実的なものにしているように思えた。

 

 さて、わたしは映画を観た後、原作を読んだ。なるほど、これを映像化することは不可能だと言われるのも納得の作品であった。本来であれば本の、紙の文字の上に作品があり世界がある。しかしこれは本そのものが一つの作品なのだ。なので、それを映像化するとなると更に外側の世界が必要になる。そして、その外側の作り方を間違えると、当然ながら陳腐な作品になってしまうのだ。
 その点において、この映画は素晴らしかったと思う。文芸作品原作だから、という雰囲気を出しながらスクリーンに浮かび上がる「第二章」で始まるのが印象的だ。既に映画の世界に入っていたわたしからしてみれば「あれ?第一章、見落としたっけ?」となる。それが何を意味するのかは、是非映画館で確かめてみて欲しい。
 また、先に述べた「動の狂気」に当たる人物が、原作よりもはっきりと悪役に描かれていた。おかげで勧善懲悪が成立し、後味の悪さを感じさせないようにしている。もう一人の「動の狂気」についても、原作で見せた陰湿で落ちぶれた雰囲気を払拭し、どこかミステリアスな雰囲気を滲ませていたことで映画全体がサスペンスの空気を纏っていたように思う。
 原作とは違うところが多々あるので、原作と比較すること、つまり再現率や忠実性で評価するとなると高得点は望めないが、原作をベースにまったくの別物の、新しい形での『映画 去年の冬、きみと別れ』が完成したのだと考えれば、この映画は大変素晴らしい作品だと感じた。同じ話のはずなのに、別なのだ。それはこの映画が、本の外側に監督が作り上げた新しい世界であり、新しい作品だからである。

 

 ここまで書いてもともと書こうとしていたことを思い出した。この映画を観て、「岩田剛典が格好良かった」「可愛かった」などという感想があるとしたら、それこそ本質ではない。
 そもそも、岩田剛典という人間の本質は外見にないのだ。少なくともわたしの中で、岩田の外見は全く好みではない。好みだったらHiGH&LOWを鑑賞した時点で好きになっていたはずだ。それでも、この映画を観てわたしは初めて、岩田剛典のことをまっすぐに好きだと思えた。なぜだろう。
 そもそもわたしは彼のファンではなかったので、今まで彼が演じてきた役を全て観たわけではないのだが、今まで見た彼には不思議なフィルターのようなものを感じた。そのフィルターのことを、蝶のさなぎと言うと少し表現が綺麗すぎるが、イメージとしては似ている。彼の演技は、いつでも「誰かを満足させるため」の演技だったような気がするのだ。だから、直接わたしのところに届いてこない。
 演技に対する熱量がないわけではないのだが、向けているベクトルが作品ではなくて事務所、先輩、ファンなど、どこかずれていたのではないかと勝手に思っている。あくまで勝手に。そしてわたしは単純なので、作品でしかそれを受け止められないので、ベクトルのずれた熱量を受け取れないまま一年間過ごしてきた。
 今回の映画では、作品にそれが注がれているのを感じた。だから、作品を読み解こうとしたわたしはその熱量に感動し、簡単に彼のことを好きになった。理屈をつけてみるのであれば、そんなところだろうか。正直な話、人が何かを好きになるのに、明確な理由や理屈はないと思う。
 しかし、できればわたしはその「熱量」が評価されたらいいな、と思う。もちろん、その熱量を湛える姿勢を賞賛する言葉が「格好良かった」「可愛かった」になるのであれば仕方がないことなのだが、できることなら語彙力を振り絞ってこの感動を伝えたいと思う。簡単な言葉で済ませたくないと思わせてくれたことに、きちんと感謝して、丁寧に言葉を選びたい。

 

 日本語でも言葉は「贈る」ものだ。本当に好きな人に心を込めて贈り物を選ぶとき、コンビニでも売っているような手軽なものを選ぶ人はそう多くないと思う。たとえ財布の中に百円玉が入っていただけだとしても、その人に一番似合う、一番渡したいものを贈る努力はするはずだ。
 わたしはまだ、今すぐに彼に贈る言葉を選びきれないでいる。でも、いつかきちんと見つけて、どうにかして伝えられる日が来たら良いなと考えているのだ。それまでは、映画を観て拍手を贈ることで、その代わりとさせて欲しい。