雑記

(Twitterに書くには長すぎる感想)

去年の冬、きみと別れ 鑑賞

※ブログ用の改行を忘れた女は、普段と同じ調子でびっしりと文字で埋めてしまいました。


「騙す騙された、この映画の本質はそこではない」

 

 これは、『去年の冬、きみと別れ』の主演を務めた岩田剛典が舞台挨拶時に終始繰り返していた言葉だ。
 映画を鑑賞した後はわたし自身そう感じたし、この言葉に異存はない。だからこそ「騙された!」と声高に主張するプロモーションの方向性は少し間違っているのではないだろうかとも思う。そして、主演がそう思っていてもプロモーションの方向性を覆すことは適わないこの商業主義に少しだけ悲しい気持ちになった。
 わたしがブログを書こうと思った理由には、そんな同情じみた気持ちも含まれている。

 

 先述の通り、わたしは『去年の冬、きみと別れ』を鑑賞した。最初は、観に行けたら行こうかな、くらいのつもりでいたのだが、主題歌を歌い上げるm-floに、LISAの戻ったm-floに、少しでも貢献しなければならない、と必ず観に行くことを決意した。
 試写会はことごとく外れ、わたしがようやくそれにありつけたのは、二月二十一日に実施されたジャパンプレミアでのことだった。その日のわたしはとにかく疲れていて、寝不足で、それでもお昼ご飯に寿司を食べに行くことで自分を奮い立たせていた。そこで、わたしは冒頭の言葉を聞いた。

 この物語の本質は、「騙す、騙された」ではない。わたしもそれに同意する。では、本質は何なのか。これもまた、確か岩田剛典本人が答えを言っていた気がする。(ただし、それがこの日のことだったかは覚えていない。)
 ――人は、愛する人のためにどこまで変われるのか。

 

 ちなみに、わたしはこの映画に「騙されなかった」人間だ。まだ観ていない人には、騙されないためのヒントを一つだけお伝えしたい。キーワードは「汗」だ。他にもたくさんのヒントが散りばめられているが、一番わかりやすく監督が挿入したヒントは、この「汗」だと思う。北村一輝演じる小林のシャツに、色が変わるほど滲んだ汗。斎藤工演じる木原坂の家に向かう、岩田――すなわち耶雲の汗。そして、それが指し示す…これ以上は、ヒントの域を超えてしまうのでやめるとする。
 まあ、騙されたところで、繰り返しているが本質はそこではないので気にすることはない。ストーリーを楽しむことはもちろんだが、それぞれのキャストによるキャラクター解釈が一番の魅力だと思う。やはりネタバレになってしまうので詳細を語ることはできないのだが、この映画には「動の狂気」と「静の狂気」が存在している。そして、わたしはそれぞれの狂気の原動力は真逆の物だと考えている。その二つの狂気に翻弄される一般人、という人間味溢れるキャラクターがいることで、この物語の人間関係をぐっと現実的なものにしているように思えた。

 

 さて、わたしは映画を観た後、原作を読んだ。なるほど、これを映像化することは不可能だと言われるのも納得の作品であった。本来であれば本の、紙の文字の上に作品があり世界がある。しかしこれは本そのものが一つの作品なのだ。なので、それを映像化するとなると更に外側の世界が必要になる。そして、その外側の作り方を間違えると、当然ながら陳腐な作品になってしまうのだ。
 その点において、この映画は素晴らしかったと思う。文芸作品原作だから、という雰囲気を出しながらスクリーンに浮かび上がる「第二章」で始まるのが印象的だ。既に映画の世界に入っていたわたしからしてみれば「あれ?第一章、見落としたっけ?」となる。それが何を意味するのかは、是非映画館で確かめてみて欲しい。
 また、先に述べた「動の狂気」に当たる人物が、原作よりもはっきりと悪役に描かれていた。おかげで勧善懲悪が成立し、後味の悪さを感じさせないようにしている。もう一人の「動の狂気」についても、原作で見せた陰湿で落ちぶれた雰囲気を払拭し、どこかミステリアスな雰囲気を滲ませていたことで映画全体がサスペンスの空気を纏っていたように思う。
 原作とは違うところが多々あるので、原作と比較すること、つまり再現率や忠実性で評価するとなると高得点は望めないが、原作をベースにまったくの別物の、新しい形での『映画 去年の冬、きみと別れ』が完成したのだと考えれば、この映画は大変素晴らしい作品だと感じた。同じ話のはずなのに、別なのだ。それはこの映画が、本の外側に監督が作り上げた新しい世界であり、新しい作品だからである。

 

 ここまで書いてもともと書こうとしていたことを思い出した。この映画を観て、「岩田剛典が格好良かった」「可愛かった」などという感想があるとしたら、それこそ本質ではない。
 そもそも、岩田剛典という人間の本質は外見にないのだ。少なくともわたしの中で、岩田の外見は全く好みではない。好みだったらHiGH&LOWを鑑賞した時点で好きになっていたはずだ。それでも、この映画を観てわたしは初めて、岩田剛典のことをまっすぐに好きだと思えた。なぜだろう。
 そもそもわたしは彼のファンではなかったので、今まで彼が演じてきた役を全て観たわけではないのだが、今まで見た彼には不思議なフィルターのようなものを感じた。そのフィルターのことを、蝶のさなぎと言うと少し表現が綺麗すぎるが、イメージとしては似ている。彼の演技は、いつでも「誰かを満足させるため」の演技だったような気がするのだ。だから、直接わたしのところに届いてこない。
 演技に対する熱量がないわけではないのだが、向けているベクトルが作品ではなくて事務所、先輩、ファンなど、どこかずれていたのではないかと勝手に思っている。あくまで勝手に。そしてわたしは単純なので、作品でしかそれを受け止められないので、ベクトルのずれた熱量を受け取れないまま一年間過ごしてきた。
 今回の映画では、作品にそれが注がれているのを感じた。だから、作品を読み解こうとしたわたしはその熱量に感動し、簡単に彼のことを好きになった。理屈をつけてみるのであれば、そんなところだろうか。正直な話、人が何かを好きになるのに、明確な理由や理屈はないと思う。
 しかし、できればわたしはその「熱量」が評価されたらいいな、と思う。もちろん、その熱量を湛える姿勢を賞賛する言葉が「格好良かった」「可愛かった」になるのであれば仕方がないことなのだが、できることなら語彙力を振り絞ってこの感動を伝えたいと思う。簡単な言葉で済ませたくないと思わせてくれたことに、きちんと感謝して、丁寧に言葉を選びたい。

 

 日本語でも言葉は「贈る」ものだ。本当に好きな人に心を込めて贈り物を選ぶとき、コンビニでも売っているような手軽なものを選ぶ人はそう多くないと思う。たとえ財布の中に百円玉が入っていただけだとしても、その人に一番似合う、一番渡したいものを贈る努力はするはずだ。
 わたしはまだ、今すぐに彼に贈る言葉を選びきれないでいる。でも、いつかきちんと見つけて、どうにかして伝えられる日が来たら良いなと考えているのだ。それまでは、映画を観て拍手を贈ることで、その代わりとさせて欲しい。