雑記

(Twitterに書くには長すぎる感想)

感想文(仮)【GO NOW / KEN THE 390】

1.はじめに

 KEN THE 390さんが2018年2月にリリースした9枚目のフルアルバム『リフレイン』より。

youtu.be

 発表当時すぐに聴いたわけでもなく、当然メディアチェックもできていない上、これを書いている人間が過去の記録媒体を掘り起こすのが得意ではないため、この曲については何のエピソードも知らない。ただ、とにかく好きだから感想を書いてその理由を少しでも明文化できればと思う。

 

 

2.感想

 わたしが先日まで掲げていた座右の銘として(今も別に撤回したわけではないのだけれど)、「人生は自分が主役の舞台である」というのがあるのだが、この曲はそれを噛み砕いて、あるいは解きほぐしてくれたような感覚があった。
 「脚本から 監督 主演 すべて 単独でやる」だとか、「光当てる スポットライト それすらも自分で 動かせなきゃ 誰も気づきゃしない」だとか、1ヴァース目のリリックを聴いてひどく共感した。別にスポットライトに当たらなくても生きていくことはできる。もしかしたらその方がいわゆる『平穏な』人生なのかもしれない。でも、それで満足できない人間が行動するのだと思う。
 一歩踏み出すには勇気と労力が必要で、そういったものが面倒になることはある。というか、いつだって面倒くさい。それでも、目指すものがあるからやるしかないのが人生なのだと思う。逆に言うと、目指すところがないから、「別にいいか」が積み重なった『平穏な』人生になるのかもしれない。

 準備期間の方が長いのは当たり前で、自分でスポットライトを動かせなきゃ輝けないのもすごくわかるのは、多分会社員としての経験からではないのだろうな、と思う。
 文字を書いて食べて行きたいと考えたときに、現実主義のわたしは早々に専業で執筆活動をすることを諦めた。まず、小説家と名乗れるまでのスパンを考え、それに至るまでに貰えるライターとしての仕事の件数を考えた後、家賃や水道光熱費などの生活に必要な経費を考えた。残念ながら、それらを考えずに夢に生きれるほどわたしはシンプルではなかった、あるいはそこまでの熱量はなかったのかもしれない。
 文章を書くのは、二十代の半ばまで本当にただの趣味でしかなかった。そして、中途半端に大人になってしまったわたしには、高校生や大学生の頃よりほんの少し現実が見えるようになってしまっていたし、そのために便利な暮らしを捨てて実家に帰るなんてこともしたくなかった。
 まあそんなことは今はどうでもよくて、話の軌道を修正すると、ひとつの企業の中では意図せずスポットライトを当てられたり、正当に評価してくれたり、仕事を手伝ってくれたりすることがある。それはこの曲のリリックと並べてみるとちょっと形が違うと思ったという話だ。
 一時期定職に就いていなかったので、非正規雇用も含めると渡り歩いた企業数は年齢の割に多い方だと思うのだが、実力主義の企業であれば自分でスポットライトを動かして光を浴びることができる。でも、それができない企業もある。昔ながらの年功序列で、何であいつがと思うような人間が脚光を浴びることなんて世界には溢れていると思う。
 その点では、音楽でも、文学でも、芸術でも、自分で自分を宣伝して売り込んで仕事を勝ち取る、賞を勝ち取る、そういう世界の価値観の方がこの曲には馴染むのだろうと感じた。まあ、その中でもやりたいことができれば収入ゼロでもいい人間、売れたい人間、モテたい人間、富と名誉が欲しい人間など、いろいろな人間がいるのだけれど(わたしは誰かに認めてもらいたかった人間で、ある出来事で承認欲求が満たされたから筆を置いたのもある)。
 実際は、仕事だけが全てじゃない。私生活においては、それこそ本当にみんな自分が主役で自分が脚本演出で監督で、外注しているのなんて音響くらいかもしれない。赤ん坊なんてその最たる例で、自分に注目してもらうためになりふりかまわず泣き叫ぶのが仕事なくらいだ。程度の大小はあれ、人間はみんな自覚したり無自覚だったり、相手の意識を自分に集めるための何かを行っている。

 

 また、わたしはこの曲にひどく共感したと共に、1ヴァース目の「人と同じそれもいい 人と違うそれもいい」という言葉と、2ヴァース目の「迷いまくった結果今があると思えれば全て無駄じゃない」という言葉に何となく救われた。どうしても何かを作ろうとしたときに、他者と傾向が被らないよう奇を衒った作風を意識したり、逆に流行を意識して没個性的な作風になったり、いろいろと試行錯誤していたことがある(仕事として文字を書いていた時期には多少なりとも自分の軸が出来上がった上で仕事を請けていたので、趣味として楽しんでいた頃の話ではあるけれど)。でも、自分で作りたいものをきちんと作ればそれでいいのだと思う。それが評価されるかどうかはわからない、流行だったり政治や経済に翻弄されることも大いにありうる。でも、そういった試行錯誤を経たからこその今だとも思えるようになることが大事なのだと思う。
 それを理解した上でいろいろと考えると、自分の好きなことをやれることが幸せの形のひとつなのだとわたしは感じている。もちろんそのために他者に迷惑を掛けてはいけないのでいろいろなことを考えて調整しなければいけなくて、多分それが一番大変な裏方作業なのではないかと思う。いや、これはきっと個人差があるから、他のことが一番の苦労という人もいるかもしれない。
 仕事であっても趣味であっても、それ以外の何かであっても、必死になれる何かがある人ならこの曲に共感できると思ったし、この曲がしっくりこないならまだ努力の余地があるということだと思う。基本的に思考回路がマイルドな松岡修造なので、そういう人が現状に満足していたとしても「もっと頑張れるよ、君ならできる」と言い始める傾向がある。そう、君ならできるしわたしにだってきっとできる。

 

(まったく話は変わるのだけれど、わたしは人に「頑張れ」と言われることが大嫌いだ。どうにも文字通り受け取ってしまうため、自分が現在進行形で行っている努力を評価されていないように感じる。逆に、努力が伝わってきて素敵だと思う人には「頑張れ」とは決して言わないし、わたしから発せられる「頑張れ」はまだ努力・改善の余地があるという嫌味を込めた警告なので、大層性格が悪いなとこれを打っていて気が付いた。楽しみにしています、と、ご無理のないよう、がわたしにとっての世間一般的な「頑張ってください」と同義なのだと思う。)

 

 

3.おわりに

 どうやって締めるつもりであったか忘れてしまった。人間は、好きなものを語るよりも嫌いなものを語る
 とにかくわたしは、この曲が好きだ。「頑張ろう」と思えるし、書いた人にはおこがましくも「お疲れ様」と言いたくなる曲だと思う。そして、そんな人が書いた他の曲も聴いてみたいな、と思わせてくれる曲なのではないだろうか。まあ、人によるか。
 リリックの内容がどうにもじわじわと「好き」を膨張させたので、歌詞にばかり重点を置いたところはあるのだが、もともとイントロの時点で好きだった。やっぱり、技術的な知識も音楽の専門知識も皆無なので、何がどう好きとかそういう話はできないのだけれど。
 努力努力と言うのだから、そういう勉強についても努力しろと思われるかもしれないが、わたしの努力のベクトルはそちら方向には向いていないので、どうか許して欲しい。