雑記

(Twitterに書くには長すぎる感想)

激動の時代を生きた女性たち

 

はじめに 二冊のエッセイ

 この一週間で二つの本を読んだ。どちらの本にも、手に取った理由はそれぞれあったが、そのいずれについても著者が二十世紀の初頭に生を受け、戦争という大きな出来事を経験して世紀末、あるいは二十一世紀に亡くなった方であった。彼女たちが遺したエッセイを、本当にたまたま二〇一八年の十一月上旬に纏めて読むこととなった。
 この奇妙な偶然に、不思議な縁をこじつけてしまいたくなったので、こうして感想のような拙文を書き残しておこうと思った。

 

 

石井桃子 『プーと私』

 二〇一八年の十月の終わりごろ、買い溜めてあった日本語の本が粗方読み終わってしまった。そのため、書店でふらふらと手ごろな文庫サイズの本を探していたとき、ふとタイトルに目が引かれた。
 奇しくも今年『プーと大人になった僕』という映画が公開され、もともと人気の高いウィニー・ザ・プーが更に注目を集めているところであった。わたしはもともと、ディズニーで取り上げられている形のプーではなく、原作のプーが好きだった。プーに限らず、イギリス発祥の児童書が好きだったというのが正しい。
 そんな人間がこのタイトルに惹かれるのは当然の成り行きだったと言ってもあながち間違いではない。手に取ってそのまま手に持っていた買う本の山の一番上に積んだ。決め手は、この本の帯に推薦文を書いていたのが、わたしが初めて作品ではなく作者として好きだと意識した方だったからだ。梨木香歩、一番有名な作品は『裏庭』だろうか。映画化の影響で、今は『西の魔女が死んだ』の方が有名となっているのかもしれない。彼女もまた、イギリスの児童文学から多くを学んでいたと記憶している。

 さて、本を手に取った理由はこの辺りにしておいて、本の内容の感想を少しだけ書いておきたいと思う。このエッセイを書いた石井桃子という人は、出版社に勤めた後、翻訳家、作家として活躍なさった方だそうだ。残念ながらわたしは外国の本は原書でもとの言葉を通して読みたいという妙なプライドがあるため、これまで名前を存じ上げてこなかった。
 しかし、エッセイを読み進めるにつれて、わたしはどうしてこの人を知らなかったのだろう?と思わずにはいられないくらい、わたしの好きな外国の児童文学に深い関わりのある方だということがわかった。それを知ることができただけで、税別七四〇円を支払っただけの価値はあったとすら思える事実だった。
 五部構成となっており、前半二部は翻訳や出版で関わった児童文学作品やその作者たちに関する所感を独特の言葉のリズムでまとめてあるエッセイだった。そこから二部、児童図書館という戦後の日本で立ち上げることがどれほど困難を要したか想像に難くないものに関わるエッセイ(しかし、困難さを描いた話ではなく、あくまで児童図書館のためにどのような人と交流しどのようなことを学んだかといった内容が主)、最後の一部で海外渡航に関する旅行記のようないわゆる一般的な「エッセイ」が書き留められている。

 この本の驚くべき、あるいは恐るべきところは、一九五〇年代から一九九九年というノストラダムスの大予言が残されていた時代まで、長きに渡って記されたものを彼女の没後に大西さんという方が纏めて発行している点だ。まず、一九五〇年代なんて戦後の動乱期と言っても良い時代だったのではないだろうか。その頃の原稿あるいは発行物がまだ読める状態でこれほど残っていたことに驚きと感動を覚える。
 しかし、この本に書き記されている素朴で上品な言葉たちは確かに残されるに値する、もっと的確に表現すると残されるべき言葉たちだと感じた。わたしたちが、あるいはわたしたちの子どもになる世代が、当然のように享受している児童文学のために、その人生を賭してくれた先人がいることを知ることができて本当に良かったと思う。

 


白洲正子 『鶴川日記』

 学習院女子の初等科からアメリカ留学という経歴は、現代のグローバリゼーションの中であれば百人に数人はいそうなものだが、当時はやはり伯爵令嬢であったからこそできたことだったのだろう。そんな、ハイソサエティな(余談にもほどがあるが、わたしはなぜsocietyという言葉を片仮名に落とし込むときにソサイエティでないのかいつだって不思議に思っている)文化に触れてきた彼女とその夫であり総理大臣の私設秘書官であった白洲次郎がどうして当時は農村でしかなかった鶴川に居を構えたのか。
 『プーと私』とは対照的に、こちらは著者ありきで選んだ本であった。たまたま、彼らがかつて暮らしていた武相荘を訪れる機会を得たので、その予習としてこの本を読もうと思ったのである。わたしはどこかを訪れるとき、予習をするのが好きだ。その方が訪れたことやそこで見たものを知識として蓄えていられる気がする。さすがに博物館のようなところで一つ一つのものを全て調べて頭に入れて行くことは難しいが、メインの展示くらいは調べて行かないと損だと考えているし、寺院や教会を訪れる際にはその宗教の習慣や建造物の歴史を簡単に勉強する。
 つまるところ、ウィキペディアでも一向に構わなかったのだが、せっかくそこに住んでいた本人が書き記した本があるのであれば、それを読むのが一番良いに決まっている。そんな理由でわたしはこの本が読みたいと思った。
 重版がかからなかったのか他の事情があったのか、新品での在庫がなかったので渋々古本で手に入れた。書店ですぐに買えなかったので一度目の訪問には間に合わず、武相荘の見学は手元に本が届いてからにしようと散歩だけに留めたのもまた、紙でしか読めない人間特有の融通の利かなさを表現しているような気がした。

 この本は三部構成となっており、わたしは当初の目的であった「鶴川日記」を読んだ。一度鶴川の地を訪問していたため、わたしは少しだけ落胆を隠せなかった。新百合ヶ丘と町田の中央に位置する鶴川は、今ではすっかり住宅地として開発が進み、本の中に描かれている昔ながら農村風景は望めないことを既に知ってしまっていたからだ。
 それでもわたしは読み進めた。小難しい言葉を使うでもなく、かといって間の抜けた様子も感じない彼女の文章は、わたしの目によく馴染んだ。
 出てくる名前が錚々たる面々ではあったものの、文章からは箱入り娘の伯爵令嬢の気配は微塵も感じられず、溌溂とした大変近代的な思想の女性が書いた文章であることがよくわかった。それがまた、わたしの気持ちを浮上させた。

 それを踏まえた上で、わたしは武相荘の中にお邪魔した。なるほどここが、と見渡してふと視界に入ったのが婚約時に互いに贈り合ったというポートレート写真であった。そこにそれぞれが手書きで言葉を残しているのだが、お互いがお互いに英語でメッセージを書いているあたり、白洲夫妻が当時の日本という国でいかに高等な教育を受けた者同士であったのかを思い知らされた気がした。
 そして、能面を見てなるほど、なるほど、とまた頷くことができた。これはやはり、白洲正子について予習をしたおかげだと思う。
 何よりも一番、じっくりと深呼吸したのは彼女の書斎であった。壁一面にびっしりと詰め込まれた本はわたしにとってはある種の理想ですらあった。そして、並んだ書物の背表紙をひとつひとつ観察し、見覚えのある名前や作品名ににんまりとしたり、首を傾げたり、年代物で背表紙がぼろぼろになったのであろう、修復された本には一種の感動を覚えた。近年は印刷技術の発展に伴い「新しいものを買えばよろしい」となってしまうことが多く、本の修繕技術は受け継がれなくなってしまった。わたしはぼろぼろになるまで英語辞書を使ったため、新しくてもっと分厚い辞書を買ってもらったことがあるのだが、それが長年の相棒を喪うようで少し寂しかった。

 

 

おわりに 二人の女性たちに感じたこと

 女性が大学に通う、英語を身に付ける、海外に留学に行く。現代日本では珍しくない光景になった。もちろん、ごく一部にはいまだに女性が知識や技術を身に付けることに否定的な人間がいるが、大多数は女性であっても勤めに出る社会というものを当然のように受け止めている。
 それが当然になるまでにはわたしが生まれるよりもずっと前から実際に活躍した女性の苦労があったのだと思い知らされた。大学に通った女性が、留学した女性が、あるいは英語の堪能な女性が活躍することで「無駄ではなかった」と証明してくれて現在がある。
 男女共同参画社会、なんて言葉が謳われてもう長いが、日本の議会の女性議員比率や日本企業の女性管理職比率、女性役員比率は決して高水準とは言えない。これからわたしたちが次の世代に残すことができるものがあるとしたら、現在の「女性が一緒に働いている」社会から「女性の発言を受け入れる」社会になるよう、積極的に発信していくことで実現できるのかもしれない。
 男性だから、女性だからという考え方に囚われず、正当な評価と相互的な思いやりで関係性を構築できる社会に向けて、百年前に生まれた先人から学ぶことは尽きない。